易経を読む(最新話)

易はすべての現象を八卦で捉え、上下卦を組み合わせることにより、より複雑な現象とその変化推移を表すことができる。一つの形は常に同時にあらゆる形への変化の可能性を持つ。易は宇宙の多次元性のしくみを視覚的に捉え、文字によって具象化する唯一の体系と言ってよい。爻辞に用いられる文字はこのことを掴むために欠かせざる存在となる。甲骨文及び金文の象意を正確に読み説くことで、卦と卦の繋がり、爻変の可能性をより正確に掴むことができる。

*甲骨文・金文の意味解釈は白川静氏編纂の「字通」及び「白川静著作集」を参照。 

*易経解釈:浅沼 元世翬 

 

 

 

 

无成有終

 

出来る人から見た世界と今はその力がない人から見た世界は全く異なる。進む力がない人にあと一歩と土は言わない。土の世界は急かさない、何も言わない、一切手を出さない。同時に見捨てない、裏切らない、何も要求しない、見返りを求めない、来たものすべてを受け入れる。そして気が付いたときは土から芽が出て実を実らせる。これが坤という気の本質。未完成でも終わりを作る。これが成すことなくして終わり有り。

 

 

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易は窮まれば則ち變じ ずれば則ち通じ 通ずれば則ち久し

 

運勢というのは決まっているものでもなく、行き当たりばったりのものでもない。生まれながらに持つ本命と月命はその人の人生の道筋を決め、そこから大きくはみ出さないようコントロールされている。そのコントロールを拘束と見る人は拘束された人生に縁ができ、そのコントロールを制御可能な人生と見る人は、望む人生に必要な出来事や縁と結びついていく。姓名判断による運気も同じである。その数命が持つ気の特徴とエネルギーの助けを借りながら行く先に向かって進んでいく。そこに凶運数があろうとなかろうと、その人の人生は常にコントロール可能である。凶運数というのはその人が荒波に揉まれる運気であると同時に、荒波に揉まれた人に縁を持つことを意味する。その苦痛から解放し、その窮地を救い、その悩みを解決してあげるように動く時、凶運数は吉運に転じ、不運を背負う自分は不運を背負う人を”助けられる自分”に転じていく。数命の吉凶はその人の生き方次第で変化する。“窮まれば變ず”とはこういうこと。

 

 

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 【地火明夷六五】箕子之明夷 利貞

 

箕子は殷の政治家。殷の紂王の無道を諫めて聞き入れられず、狂人を装い身を隠したと言われる人物である。いつの世にも誠を貫くことができず、正しいことを主張しても聞き入れられず、不遇の中で悶々と過ごす人がいる。敢えて狂人を装うということはそれ相当の見識の持ち主でなければできないことであろう。真の賢人は生きている時に評価されないことが多く、またそれをあえて避けようとする人もいる。一方生きているうちに実力を発揮し、成果を上げ、富を得、厚遇される人もいる。

 

地火明夷とは離の明智の光が地下に埋もれた形。否塞の世の形である。世の中の人が当たり前だと思っていることの中に、どれだけの間違いや勘違いがあるだろうか。正しいことが世の中に当たり前に認知され実行されるようになれば、どれだけの人が救われ、住み心地の良い社会が築けるだろうか。そのことを知っていても今は明智を隠し敢えて狂人を装う。龍はいつの世にも在野に隠れ潜んでいる。「利貞」。出入りを厳密にし身を慎むという姿勢がすべてを物語る。

 

 

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君子終日乾乾 夕惕若 厲无咎

君子は終日乾乾たり。夕べに惕若たり。危うけれども咎めなし。

 

易経の「君子」は一般的に私たちが捉えているような君子とは少し違う。易に現れる「君子」はもっと人間的である。そのことが乾爲天九三の爻辞によく表れている。この辞は「君子」が終日壮健に励み、一日の終わりにわが身を振り返り、何か過ちはなかったか、出過ぎたところはなかったかと畏れ慎む姿を表す。これが「惕若」(てきじゃく)である。ここで見逃してはならないのは九三という位置に「君子」が最初に現れることである。九三は上卦と下卦の境界線にあり、運気の境目であることから不安定な位置で、誤解されやすく外部の侵入や干渉を招きやすい。これが「厲」の意味である。乾爲天において「君子」はなぜ上位の安定位置である五爻に現れず、不安定な九三に現れるのか。

 

我々が思い浮かべる君子は人徳が備わり周囲から慕われ、地位も高い位置にある。一方易の「君子」は時に危うい立場に置かれ、時に苦難を背負い、時に孤独になり、時に豹變する。危うい立場に立たされても決して「乾乾」としてわが身を失うことはない。乾は元来光を表し、光は与えても尽きない性質を持つ。「君子」は光の気質を体現するという意味が裏に隠されているように思う。

 

「惕若」の「惕」は「易」に通じ、「易」は玉光を表し魂振りを行う形でもある。「若」は巫女が両手を上げて舞い神託を受ける形。神が応諾することを意味する。「君子」の「君」は元来巫祝の長を表す文字である。天に通じ神託を受けることのできる人である。時に九三という在野に属し、危うい立場に置かれることもあるが、「惕若」たり得て天意に背くことのない人である。

 

 

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持たない豊かさ

 

坤は持たない豊かさを表す。豊かさのことを福と置き換えてもよい。福は凡そ兌(七赤)の気が豊かであることからもたらされる。兌の気とは生活に必要なもの、衣食住が事足りている状態を言う。この兌の気がある程度固まってくると、次は乾の気に移行する。乾は兌で得た収穫を保管し蓄積する気である。そしてその蓄積したものを不足するところへ施す。これが乾、六白の役割である。

 

坤の役割は育てること。無から有への変化をもたらすことである。坤は土であり、土はものを生み出す元となる。母胎は坤の気からもたらされ、土と同じ働きをする。土に種を植えると芽が出て実が育つ。母胎から子が生まれ、庇護を得て、芽が出て実となり成長していく。坤はあらゆるものを育てているが、自らは報酬を求めない。ところが命あるものはいずれ土に戻ってくるから、報酬を求めなくともすべてはいずれ坤に戻ってくる。そしてここから再生する。土の中には無数の微生物が生存する。これが有機物を分解し肥沃な土を作る。この循環を陰陽五行という。五行の中の土の役割はものを変化させること。陰性のものを陽性に変え、陽性のものを陰性に変える働きである。

 

坤は尽くすのみで見返りを求めない。物質的見返りも精神的見返りも求めない。だからこそすべては坤に戻る。そういう気が宇宙にはある。豊かさは持つことと私たちは考えているが、持たない坤の気から兌の物質的の豊かさは生まれている。一切の見返りを求めない坤にしか生命を宿し、生命を育てることができない。この摂理を私たちはどのように受け止めるだろうか。 

 

 

                 

 

 

地道無成 而代有終也

地道は成すことなくして代わって終わり有るなり

 

土はものを言わない。だから少々の無理でも受け入れてしまう。土はありがたい。準備が整っていないことも、無理を強いていることもそのまま受け入れてしまう。土は移動もできる。盛り上がっているところをならすこともできる。土は綺麗も汚いも辛いも言わない。だからできないこともそのまま受け入れてしまう。それを隠してしまいそのまま抱え続けてしまう。そして数年後に掘り起こしてみると、分解できずにそのままの形で残っているものもある。

 

土は偉い。我々は土がなければ何もできない。家も建てられない。植物も育たない。植物が育たなければ動物も育たない。土がなければ生命の源である水も蓄えられない。こんな当たり前のことも忘れてしまうほど、私たちは土の偉大さを知らない。易では土の働きを坤(こん)という。「地道無成 而代有終也」とは坤の偉大さを称えた言葉である。

 

地道とは成そうと思わなくともいつのまにか成し遂げていることを言う。地道は成果を求めず、自分の取り分を考えず、育てることのみに力を降り注ぎ、評価や価値の対象から完全に切り離された世界に生きる。だからこそすべては土に帰り、土に戻る。そして土から再び生まれる。坤の偉大さとともに坤の恐るべき力を知ると、少々のことは何でもないことだと分かるようになる。

 

 

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子曰龍德而隠者也 不易乎世 不成乎名 遯世无悶

不見是而无悶   樂則行之 憂則違之 確乎其不可拔 潜龍也

 

子曰く、龍德は隠者である。世が変化しても自分は変わらず、名声を得ることもない。世を逃れて暮らしても憂うることはないし、認められなくとも憂うることはない。楽しみがあれば則ちこれを行い、憂うることがあればそこから違(さ)る。確乎としてその節操を奪うことができない人。それが潜龍である。

 

「潜龍」は乾爲天の初九に出てくる。初九という位置は最下位ではあるが陽爻であるため勢いがあり才気あふれる。但し活躍の時期未だ至らず実力を発揮することができない。

 

龍德則ち潜龍と呼ばれる人は隠者であるという。天地否のように世が塞がっている時は決してわが身を世にさらさない。どこか目立たない山村に身を隠し、持てる知識、智慧、技術を誇示することもない。多くの人は賑やかな晴れ舞台に上がって持てる力を発揮し名声を勝ち取ろうともがく。そして富を得てその地位を固める。そのような生き方にはどうしてもなじめない。潜龍は楽しみを糧として動き、憂鬱を避けて通る。これは自分本位な楽しみではなく自分本来の才能を発揮することの喜びを表す「楽」であろう。

 

心を楽しませることは素直に行い、気が滅入ることには決して手を出さない。「憂則違之」という言葉は頭ではわかっていても実際に行うことは難しい。これは地位、名誉、財産という物質的価値観から逃れきっている人にしかできない。自分の本当の才能、実力を発揮するためには、外からくる価値観に影響されず、自分軸をしっかり立てて回転しなければならない。

 

時を得た時、潜龍は「見龍」となり「大人」に謁見する。一時不慣れな世間の荒波に揉まれ、危うい立場に立たされることもある。それなりの地位を得てもやりたいことができず力を温存することもある。そしてようやく時と場所を得た時「飛龍」となって持てる実力を思う存分発揮する。

 

 

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同聲相應同氣相求

同声相応じ、同気相求む

 

同じ声を持ったもの通しは相応じ、同じ気質を持ったもの同士は相求める。私が易経の中でも最も重要視している言葉である。気とはそもそも何なのだろう。気の理解の仕方は様々あるが、一番分かりやすく説明するにはやはり物理で説明したほうがよい。気を物理学的に説明すると波動エネルギーとなる。波動とは電磁波(周波数)であり、様々な現象として現れるが、情報を交換する手段にもなる。ラジオ、テレビを通して私たちが音声を聴き映像を見ることができるのは、発信元と受信側の周波数が一致するからである。

 

実は「同聲相應同氣相求」はこのことを言っている。同じ気質を持つと互いの波動が一致し繋がる。この状態でエネルギーや情報の交換が起きる。これは人に限らず物や現象についても同じことが言える。例えば不機嫌な波動を出せば不機嫌な人に繋がり不機嫌な出来事に遭遇する。感謝の気持ちを発すると相手も同じように感謝の気を発し、その気を共有する人が集まり、さらには感謝に代わる様々な物質が目の前に現れる。

 

自分の身の回りで起きている出来事は自分が持つ周波数で決まる。運気とは自分が”今”発している波動で決まる。このことを最も分かりやすく簡略に表現したものがこの言葉であろう。 

 

 

  

(浅沼気学岡山鑑定所監修)