龍德は隠者なり
子曰龍德而隠者也 不易乎世 不成乎名 遯世无悶
不見是而无悶 樂則行之 憂則違之 確乎其不可拔 潜龍也
子曰く、龍德は隠者である。世が変化しても自分は変わらず、名声を得ることもない。世を逃れて暮らしても憂うることはないし、認められなくとも憂うることはない。楽しみがあれば則ちこれを行い、憂うることがあればそこから違(さ)る。確乎としてその節操を奪うことができない人。それが潜龍である。
「潜龍」は乾爲天の初九に出てくる。初九という位置は最下位ではあるが陽爻であるため勢いがあり才気あふれる。但し活躍の時期未だ至らず実力を発揮することができない。
龍德則ち潜龍と呼ばれる人は隠者であるという。天地否のように世が塞がっている時は決してわが身を世にさらさない。どこか目立たない山村に身を隠し、持てる知識、智慧、技術を誇示することもない。多くの人は賑やかな晴れ舞台に上がって持てる力を発揮し名声を勝ち取ろうともがく。そして富を得てその地位を固める。そのような生き方にはどうしてもなじめない。潜龍は楽しみを糧として動き、憂鬱を避けて通る。これは自分本位な楽しみではなく自分本来の才能を発揮することの喜びを表す「楽」であろう。
心を楽しませることは素直に行い、気が滅入ることには決して手を出さない。「憂則違之」という言葉は頭ではわかっていても実際に行うことは難しい。これは地位、名誉、財産という物質的価値観から逃れきっている人にしかできない。自分の本当の才能、実力を発揮するためには、外からくる価値観に影響されず、自分軸をしっかり立てて回転しなければならない。
時を得た時、潜龍は「見龍」となり「大人」に謁見する。一時不慣れな世間の荒波に揉まれ、危うい立場に立たされることもある。それなりの地位を得てもやりたいことができず力を温存することもある。そしてようやく時と場所を得た時「飛龍」となって持てる実力を思う存分発揮する。
(浅沼気学岡山鑑定所監修)