離爲火
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【彖辞】離 利貞 亨 畜牝牛吉
黐にかかる。出入を厳密にして貞卜し修祓するがよい。会同饗宴せよ。牝牛を養えば神意にかなう。
離爲火は上経の最後で坎爲水の裏卦となる。坎爲水は度重なる災い、艱難連続の卦であった。離爲火の離は鳥が黐(とりもち)にかかる義。楚辞に「騒に離(あ)ふ」とある。騒乱から離れようとするところから離去、離別の意が生じる。さらに離は麗と通じ、つく、ならぶ意となり、羅と通じ、あみの意となる。さらに罹に通じ、うれえの意となる。離の気は鋭角的に物事を進めるため「畜牝牛吉」となり、大人しい牝牛を扱うようにせよという。
離は気学でいう九紫火星。後天図という気の配置図があり、その南が離宮(りきゅう)となる。九紫はここを定位とする。南へ行くと離別が生じるから、南を離と名付けたのは実に的を射ている。離はものや人を離す働きを持つが、逆に付く働きも持つ。気は離れると同時に次のものに付く性質を持つ。九紫にはさらに決める、決着する、裁く働きがある。この意味は離の文字にはない。
【初九】履錯然 敬之无咎
錯然として新天地に足を踏み入れる。これを敬(つつし)めば咎めはない。
「履」は土地を賜ってその土地を踏む践土の儀礼。なぜ「履」の文字が用いられたのか。離爲火の形は見方によっては人の足跡が並ぶ形にも見える。「錯」はみがく。砥石にかける。そむく。わかれる。「然」は肉を焼いてその脂が燃える形。天を祀る祭儀(祓い)に用いた。「錯然」の「然」は形況語の接尾語としての用法と見られる。「敬」は「苟」+「攴」。「攴」は「卜」+「又」(手)。「苟」は神事祝祷に関する字。責め戒める。神意を畏れる。金文に「夙夜を敬(つつし)む」とあり、先祖を祀る義となる。
【六二】黄離 元吉
佩玉離れる。命を全うし廟に報告する。神意に適う。
「黄」は卜文では火矢の形に見え、金文では佩玉の形に見える。坤爲地の六五に「黄裳 元吉」とある。「黄」は気学の五黄にあたり中央の色となる。離は強く結びついたものを離す力がある。そして適度な間を維持する働きがある。「黄離」も適切な距離で離れ、互いの独立を保つ形であろう。「元吉」の「元」は元首の他に長子、跡継ぎの義もある。易における元首の地位は五爻にある。従って六二は六五の後継者となる。「元」は元首を明確化される働きがある。
【九三】日昃之離 不鼓缶而歌 則大耋之嗟 凶
①日が傾き離れ去る。缶を叩いて歌うようでなければ、老人の嘆きとなる。
霊を鎮め災厄を祓え。
②日が傾きかける頃離れる。大いに鼓舞して豊凶を卜し、
願いの成就を求める。盟約すれば大老これを嘆く。霊を鎮め災厄を祓え。
➂日が傾きこれを離れる。缶を鼓たずして歌(許可)を而(もと)む。
則ち大老これを嘆く。霊を鎮め災厄を祓え。
「昃」は日を受けて人影が傾く形。午後二時頃を表す。「鼓」はつづみを打つ形。「缶」の旧字は罐。水器。釣瓶を表す。「罐」の「雚」には鳥占により豊凶を卜する意味がある。「鼓缶」を文字の形象から読み解くと、上から吊り下げるもので、鼓を打つように一定のリズムで動く水器となる。易は文字の形象を素直に繋げていくと、意外な光景が浮かび上がってくることがある。「耋」は足元のよろよろする状態の老人。初九が変爻すると火山旅となり、その裏卦水澤節の六三に「不節若則嗟若 无咎」とある。ここで「嗟」が応じる。この卦の形は上下に対称性があり、海面に移る夕日をイメージできる。九三九四の間を水平線とし、沈みかけた太陽が水面に姿を映す形と見ることもできる。九三は上下卦分離の境界にあるから凶。
「不鼓缶而歌」の一つの解釈として、九三の位置は国境であるから、通行の許可を求めることが考えられる。その許可がしばらく待っても得られない。その理由は離爲火の形が両扉のある門で、頑丈に閉じられた形だからである。「戸」は一扇の戸で「門」は両扉のあるものを言う。この違いについては水澤節でも記述した。その水澤節の「節」は門関の通行手形となる割符を意味するものでもある。さらに水澤節の裏卦は火山旅であり、この形は離爲火の両扉の片側が開いた形となる。この形を通行できる形と見る。「不鼓缶而歌」は缶を鼓たずして歌(許可)を而(もと)むと読むこともできる。つまり缶を鼓つように繰り返し扉を叩かなければ門は開かない。それが「大耋之嗟」となる。その缶を鼓つ形が火山旅の形に現れる。上卦の離は缶または鼓の形であり、下卦の艮はこれを打つ手となる。水澤節の六三と離爲火の九三には類する表現がある。その背景には国境の通行許可を求める形式があったのではないか。従って九三と背中合わせになる九四はその扉を開ける側の立場になる。そのように想定すると九四の「突如其來如」に何度も扉を叩いてくる様子を読み取ることができる。
【九四】突如其來如 焚如 死如 棄如
突くが如く、来襲するが如く、焼かれるが如く、死ぬが如く、捨てるが如し。
「突」は「穴」+「犬」。「穴」はかまど。煙出し。勢いよく出る。「如」は巫女が祝禱を前にして祈る義。「來」は来襲または貢獻の義。「焚」は「林」+「火」。焼き狩り。焚殺。「死」は残骨を拝し弔う人。「棄」は逆子を棄てる義。契約を放棄すること。離爲火の九四は下卦離の火に焼かれる位置にある。易は事態の緊迫を表す時、また同じ形が重なる時、同じ文字を反復して用いる。
九四変爻による山火賁【六四】賁如 皤如 白馬翰如 匪寇婚媾
山火賁の裏卦澤水困【九四】來徐徐 困于金車 吝有終
関連する二つの爻辞から何か切羽詰まった状況が伺える。「賁如」は目立つ物を付けた状態。「皤如」は次から次へと入ってくるもの。「白馬」「金車」を重ね合わせると、疾走する白い車。ここから「突如其來如 焚如 死如 棄如」の状況を想定することができる。九四は境界に位置し、九三の災いがそのまま移行する。
【六五】出涕沱若 戚嗟若 吉
①涙が溢れるように出て神託を受け、憂えて嘆き神託を受ける。
契刻した誓約の実現を求める。
②涙が溢れ出てよし。憂えて嘆いてよし。神意に適う。
「出」は歩行を示す足の形。出行の儀式があり「出」は践土の儀礼を意味する。これが同じく践土の儀礼を意味する初九の「履」に応じる。この卦の形は人の足跡の形と初九で述べたが、「出」の践土の義がこの推論を裏付けする。「涕」はなみだ。「沱」は水があふれて分流すること。裏卦坎爲水は上下の水が分流する形と見ることもできる。「若」は巫女が両手を上げて舞い、神託を受けようとしている状態。「戚」の声符は「尗」(シュク)。鉞の頭部の形に刃光が下放する様。斧。武舞や儀器として用いた。うれえる。したしむ義。礼記に「大樂正は、干戚(かんせき)を舞うこと~學(をし)ふ」とある。「戚」の武舞の義が九三の「不鼓缶而歌」に応じる。六五の「戚嗟若」が九三の「大耋之嗟」に応じる。易は総じて三爻の動きが五爻に強く影響する。「出涕沱若 戚嗟若」の文言は六三の嘆きに応じる表現と見る。離は分離の象意であるが、解決の象意も持つ。憂いと嘆きがあっても、六五は中庸の徳をもって解決をもたらすから吉。
【上九】王用出征 有嘉折首 獲匪其醜 无咎
①王自ら出陣し征服する。饗宴を催し軍功を称える。捕獲せんとして
酒を酌み交わすにあらず。咎めなし。
②王命により出征する。増収をはかり軍功あり。捕獲して共感呪術を施し
邑の祟りを祓う。神罰なからん。
➂王命により出征する。増収をはかり軍功あり。執訊獲醜
(厳しく咎め訊ね敵を捕虜とする)にあらず。神罰なからん。
「嘉」は「喜」(たいこ)と祝禱のサイ。「加」は鋤と祝禱。秋に虫害を祓い増収をはかる農耕儀礼。「嘉礼」は婚礼、出産(男子出生の義)、冠礼(成人式)、饗宴をいう。「折」は草木を折ること。矢を折って誓いを立てる。「折」には断首の意味がある。また金文の「折首」には軍功の義もある。金文の「折首執訊(しつじん)」の執訊は厳しく咎め訊ねること。「獲」は鳥を手で取る象。卜辞では獣や異族を捕える義で用いる。「匪」ははこ。かたみ。「非」に通じ、~あらず、なしの義。白川静氏は「非」「匪」について、敵方の媚女(巫祝)をうちすえて敵の呪力を殺ぐ共感呪術を示す字と記す。「醜」の声符は「酉」(ユウ)。礼冠をして鬯酌(ちょうしゃく)する呪詛。酒を酌み交わす儀式。鬯酌は祓いの儀式に用いる。邑に祟りがあったとき卜問して醜の儀礼を行ったという。詩経に「執訊獲醜(しつじんかくしゅう)薄(しばら)く言(ここ)に還歸す」とある。「獲醜」は敵を捕虜とする義。「嘉」と九三の「鼓」が応じることから、上九の爻辞は全体として九三との関りを示す。
「王用出征」は王自らの出征であり、わざわざ現地に乗り出していく様子。「有嘉折首」は饗宴の名目で赴き、功績を称えつつも何かを咎め訊ねる。「獲匪其醜」の「醜」は邑の祟りを祓う儀式であるから、地方の管轄人事で懸念事項が浮上し、トップ自ら偵察と尋問のために足を踏み入れたと想定する。このように捉えると「折首」は退職、人事交代を暗示する用語となる。裏卦坎爲水の上六に「三歳不得」とあり、事態が硬直化して収穫が得られない状況が現れる。離と坎は物事の動き方の違いを明白に現わす。離は諸々の障害があっても最後は決着をつけるが、坎は祗(なやみ)が平らかになることはあっても、白黒決着をつけることはない。
(浅沼気学岡山鑑定所監修)