天澤履
䷉
【彖辞】履虎尾不咥人 亨
虎の尾を踏んでも虎は人に咬みつかない。希望は通る。
「履」は土地を賜ってその地を踏む践土儀礼。「戰戰兢兢として、深淵に臨むが如く、薄氷を履むが如し」と詩経にあり、この文字は恐る恐るゆっくりと足を踏み出す義がある。六三に同様の表現があることから、この卦の主爻は六三(裏卦の九三)であることが分かる。
【初九】素履 往无咎
未開の地に足を踏み入れる。奮起して行けば、神罰なからん。
「素」は束ねた糸の上部の白く染め残されている形。手を加えない状態のもの。未開の地に足を踏み入れる形は裏卦の形と見る。「履」は「復」に通じる。易は坤を呪霊が憑く形と見る。初九の段階は未だ遠くまで足を踏み入れておらず災いはない。天澤履の裏卦地山謙の下卦艮を逆転させると地雷復となる。
地雷復【初九】不遠復 无祗悔 元吉
【九二】履道坦坦 幽人貞吉
①礼節に従い徐々に安らかに足を踏み入れる。隠者の如く幽居し、出入を
厳密にすることが神意に適う。
②除道して未開の地に足を踏み入れる。安寧に安寧にせよ。隠者の如く
幽居し、出入を厳密にして、契刻した誓約を実現せよ。
➂日の出に除道して未開の地に足を踏み入れる。隠者の如く幽居し、
出入を厳密にして、契刻した誓約を実現せよ。
九二は中位に立ち、重要な儀式に向かうように身を慎む。「旦」は日の出を表す文字。重要な儀式は日の出に行われたという。金文の冊命を記すものに「旦に王、王室に各る」というものがある。冊命は王から受ける任命の詔である。「坦坦」の繰り返しが九四の「愬愬」に応じる。易が文字を繰り返す時は八卦が重なるか、二つの陽爻の間に坎が入る形が見受けられる。この卦における形の重なりとは九四変爻による風澤中孚の形である。この形は兌の形が上下向き合う形になる。この形を「坦坦」「愬愬」で表した可能性がある。「幽人」は世を避けた人と解するよりも、中位の実力があるが今は身を隠している人と解釈する方がよいだろう。「幽」が用いられる理由は易の形からも伺い知ることができる。天澤履の裏卦は地山謙。地山謙の形は九三が唯一の陽爻になる。この下に六二がおり、六二は九三に隠れて身をひそめる。これを「幽」の形と見る。地山謙六二の爻辞に「鳴謙 貞吉」とある。「鳴」は雷地豫でも用いられるが、鳥は時に予兆を知らせることがある。「幽」は裏で何か重要な情報を掴んでいるが、これを表に出さない姿と見ることもできよう。「幽人」という表現は天澤履の他に雷澤歸妹の九二でも用いられる。雷澤歸妹の裏卦は風山漸。ここでも裏卦の六二は九三の壁に立ちふさがれ身をひそめる。従って「幽」とは境界線を表す九三の下で出入りを慎む姿と見ることができる。天澤履は礼節を弁え境界を履み越えないこと。雷澤歸妹の「歸」は帰還を意味する文字でもある。
【六三】眇能視 跛能履 履虎尾咥人 凶 武人爲于大君
片目で見、片足で進もうとする。虎の尾を踏んで人を嘲り笑う。禍ある。武人が君主に指図する。
「能」は金文に「多王能(よ)く福したまえり」とあり、よいの義。九二にて九四変爻の動きがあると指摘した。風澤中孚の六三に「罷」が用いられており、「能」に応じる。文字の繋がりは変爻による互いの卦の繋がりを示す。「跛」は傾き片寄る義。上卦の乾の力が強く、直視できない。目は離の形であり、九二から九四の離が六三の境界で離れるから片目と見たのだろうか。「跛能履」は裏卦の形であろう。地山謙の九三が国境であり、ここで踏みとどまっている形。上卦乾の九四を「虎尾」と見た場合は、六三が上位の乾をけしかける形。六三を「虎尾」と見た場合は、上卦の乾が六三を踏み、けしかける形と見る。「爲」は象を手で指図する形。「武人」は裏卦の九三と見なし、九三が六五の「大君」の地位を狙う。
地山謙【六四】无不利 撝謙
「撝」(さしまねく)が「爲」に応じ、九三をさしまねく。
【九四】履虎尾 愬愬終吉
虎尾を踏む。恐る恐る引き下がれば終には吉である。
天澤履は虎尾を踏んで噛みつかれる寸前の状態を表す。「復」は招魂の儀礼で「履」は土地を賜ってその地に足を踏み入れる時に行う。初めての土地や異国の地を踏むということは、当時の人にとっては厳粛な意味があった。異国の土地とは祖霊に守られていない土地である。その土地に踏み入ることを相当恐れたのであろう。「虎」は兌あるいは乾の象。上卦が強硬な乾。下卦の兌がこれをなだめ、あるいはけしかける。九四は乾の一番下であるから、六三が九四の虎尾に噛みつきけしかける形。また逆に九四の虎尾が六三を威嚇し踏みつける形でもある。「愬」は情をもって告げる意。人のことをわるくいう、うったえる義として用いられる。「愬」をうったえる意味で捉えると、訴える側は下卦の兌と見る。「愬」の「朔」は月の形が回復に向かって満ちる形。遡って上弦に至る。月の初日すなわち朔日から八日目(七日後)に上弦の月となる。上弦の月の形は裏卦艮の形と見る。九四の「愬愬」が九二の「坦坦」に応じる。九二でも指摘したが、文字の繰り返しは同じ形の反復が想定される。「愬」の「屰」は人の正面形の「大」を倒さにした形である。つまり艮の上弦の月を逆さにした形が「朔」であり、艮を逆さにした震が「愬」となる。すなわち艮と震が隣り合わせで重なる雷山小過の形を「愬愬」と表現したものと推察する。同様に九二の「坦坦」は艮の山から震の朝日が昇る形を表したものと考える。雷山小過の裏卦風澤中孚の六四に「月」の文字が現れる。
風澤中孚【六四】月幾望 馬匹亡 无咎
「望」は満月のことを言うが、元来は王の軍事に行う望乗のことを表す文字である。その形は風澤中孚に現れる。この爻辞は四爻と三爻の境界に緊張感が生じており、裏卦の九三が国境を越えて侵入することを警戒する。「愬愬」は艮と震が向き合い、互いに国境を越えて侵入しないことを表す。従って九四の「虎尾」は裏卦の九三と捉える。
【九五】夬履 貞厲
意を決し、未開の地に足を踏み入れる。出入を厳密にして貞卜し、我が身を修祓して邪気を祓え。
「夬」はゆがけまたは刃器を持つ形で、決の意味に繋がる。九四までは戦々恐々とした状態であったが、九五に至り決然と踏み切る。「夬履」の状態を為すのは裏卦の九三である。九三が六五を絞ぐことを表し、これを「貞厲」とする。
【上九】視履考祥 其旋元吉
神意を見て践土する。進退に関して三考し吉凶を判断せよ。それ踵をかえし、
元首の命を全うせよ。このようであれば神意に適う。
上九の「視」と六三の「視」が応じる。「考」は現在では考究の義であるが、礼記では亡くなった父親の意として用いられる。書経にはじっくり進退を考える意味の「三考」として用いられ、祖霊の意向を確認する義がある。上九に至り決断したことを踏み切る段階にあるが、上九という際で行き過ぎた部分がある。その前にじっくり再考して行動せよという。「旋」は旋回の義であり、裏卦の九三の形を表す。裏卦の上六は九三の動きを「視」て、旋回せよと指示する。九三は六五の元首を凌ぐ勢いがあるが、艮の形に準じ、旋回して立ち位置に戻る。すなわち地山謙の九三を推奨したものと捉える。
尚、「元吉」は五爻が元首であることを明確化させる時に用いる。天澤履は上九が九五の上位に立ち、六三が上九に応じるため、元首が不明確化する。このため上九に「元吉」を記し、上九あるいは五爻の何れかが変爻することで、五爻が元首であることを明確化させる。まず上九が変爻した場合、表が兌爲澤、裏は艮爲山となる。但し上九変爻は裏卦の艮爲山において上九と九三が応じ、六五が陰爻となるため五爻の権威が依然明確化しない。従ってここでは九五が変爻し、火澤睽(裏卦水山蹇)の形を作る。
兌爲澤【九五】孚于剥 有厲
【上六】引兌
艮爲山【六五】艮其輔 言有序 悔亡
【上九】敦艮 吉
火澤睽【六五】悔亡 厥宗噬膚 往何咎
【上九】睽孤 見豕負塗 載鬼一車 先張之弧 後説之弧 匪寇婚媾
往遇雨則吉
水山蹇【九五】大蹇 朋來
【上六】往蹇 來碩 吉 利見大人
九五変爻による火澤睽およびその裏卦水山蹇を見ると、五爻は「吉」とはならないが、水山蹇において九五が元首であることが明確化する。但し九三が五爻に反する形が残るため、五爻に「元吉」を付けず上九に「元吉」を付け、上爻の立場から五爻が元首であることを説く。尚、五爻の変爻によっても上爻の「吉」は維持される。水山蹇の上六は九五を「大人」とし、応の九三に対して九五の元首に謁見せよと指示する。
天澤履は凡そ礼節をわきまえた行いをせよという卦である。「履虎尾」は出過ぎた態度を現わす表現である。相手の領分に無暗に立ち入ってはならないという意味でもあるし、仁義に反することは避けなさいという警告でもある。天澤履を逆さにした賓卦は風天小畜となり、天澤履の上九に当たる位置は風天小畜の初九となる。この爻辞を見れば天澤履の上九が何を言わんとしているかが分かる。
【風天小畜初九】 復自道 何其咎 吉
道義に基づいてかえる。何の咎めがあろうか。このようであれば神意に適う。
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易の爻辞は主語を特定できないものが多い。いや厳密な意味での主語はないと言ってもよい。天澤履に「履虎尾」とあるが、虎尾を踏むのが”誰か”は書かれていない。この主語がない世界であることに気付くことが易を理解する上で重要なポイントとなる。虎尾を踏むものと虎尾を踏まれるものは私たちの目から見て別々のものに見える。ところが易に馴染んでくると主体と客体の区別がつかなくなり、逆の立場のものが同一化しているように見えてくる。
「愬愬終吉」の「愬」をうったえる姿とすると、うったえるのは九四なのかそれとも六三なのか。「愬愬」たるものは”私”でもあり同時に”相手”でもある。このように見えてくるのは果たして錯覚だろうか。天澤履は六十四卦のなかの一つの波動形である。その波動形の中に六三という位置があり九四という位置がある。二つの位置は同じ卦の異なる時と場の状況を表している。人の目から見れば爻位置の違いは明らかに立場の違いとして見える。
ところで電子は観測した瞬間に粒子となり、観測しない時は波として空間に広がっている。すなわち観測しない時はあらゆる場所に電子はある。電子は粒子でもあり波でもある。この原理は易についても同じことがいえる。易は観測した瞬間に特定の波動形となり、それが卦となって現れ爻位置が定まる。易も電子と同様、観測しなければあらゆる卦となり爻となる。
「虎尾」を踏む側と「虎尾」を踏まれる側は別々の存在だと見る。これも一つの真実。「虎尾」を踏む側と「虎尾」を踏まれる側は、同一なるものの異なる側面である。これも紛うことなき真実。これが易の多次元性であり易という世界の実体である。
(浅沼気学岡山鑑定所監修)