天雷无妄
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【彖辞】无妄 元亨利貞 其匪正有眚 不利有攸往
妄念なし。大いに願望が通り、身を慎むのがよい。正しからざれば災いある。往くべきところがあってもよろしきことなし。
「妄」は屍の呪霊。金文に「女(なんじ)敢て妄寧なること毋れ」とある。みだれる義。「无」は亡の意味。なくなる。なし。
易の爻辞で用いられる「无」は訳としては「~なし」となるが、易が成立した時代に「~なし」という否定概念が存在したかは不明である。そもそも文字は神と人との交信の手段として生じたものであるから、最初から神との関係において否定形が存在したとは考えにくい。おそらく天地否の「否」のように、人の方から神意を拒否する「不」の概念が生じ、次第に「~なし」のような否定概念が成立していったのではないかと私は考えている。
「~なし」という概念・世界観は、神と人との関係性が分離してしまったことによって起きている。神と人との意識が常に一体で繋がっていれば、願いの実現を求めその返答を受け取る肯定の関係となる。その一方で願いが適わなかった時の人間側の反応がある。神あるいは天との間で音信不通となった状態である。この概念を「不」という文字に表したのではないかと推察する。この「不」はないを意味する無ではなく、塞がって通じない意味であろう。これを物理学的に言うと、周波数が異なるために交信相手に繋がらない状態である。神気と人気は同じ波動にならなければ、一切のやりとりは塞がったままとなる。これが「不」であろう。
「无妄」という卦はこのことを暗示している卦でもある。「无」という文字は「~ない」と訳して終わる文字ではない。「无妄」は人が神との一体感を失い、不安定化した姿が現れているように思う。そのことが爻辞に具体的に現れる。
【初九】无妄 往吉
妄念、消え去らんことを。奮起して出向する。契刻した誓約を実現せよ。
この卦の裏卦は地風升で下卦の巽が風のごとく従って進む形。初九は陽爻であり妄念なく進む。これが「往」の象意となり吉となる。
裏卦地風升【初六】允升 大吉
「允」は手を後ろにしている罪人の形。虜囚。恭順する。貞卜の結果に対する追認の意味がある。この意味が九四の「可貞」と繋がる。
【六二】不耕穫 不菑畬 則利有攸往
①耕さずして収穫を得、休耕して三年の地味を蓄える。盟約し、
身を清め意を決して進むがよい。
②耕さずして収穫を得、菑(わざは)い無きこと三年。盟約し、
身を清め意を決して進むがよい。
天雷无妄の上卦乾は田を表し、下卦震は鋤を表す。ここから田を耕す象意が出てくる。「耕」は耕す義。「穫」は穀物を収穫すること。「菑」は荒れた田。開墾した初年の田とする。初年を「菑」、三年を「畬」とする説もある。詩経に「菑(わざは)ひ無く害無し」とあり、多くは災害(水災)の意味で用いるという。字通には「菑畬」(しよ)を田土を墾(ひら)くことと記す。「不」は否定語の意味を持つが、「丕」に通じ大きい、大いにの義を持つ。「丕(おお)いに顯(あき)らかなる文王」のように用いる。「不」は否定語と大いにという全く逆の用法を持つ。いずれの用法が妥当かは個々の事例によって判断すべきであるが、ここでは否定語として訳す。この爻辞は全体として何を語っているのだろう。この謎を解く鍵が裏卦の地風升にある。
地風升【九二】孚乃利用禴 无咎
誠意があれば西の質素な禴祭を取り行うのがよろしい。このようであれば咎められることはない。
地風升は九二が九三にぴったりと付いていき、上位へ進んでいく卦である。つまり昇格昇進の卦である。地風升の地は坤。無。無欲を意味する。風は巽。上位に従うことを意味する。これは心を無にし収穫を期待せず進めという卦である。「不耕穫 不菑畬」は上卦乾の田畑の状態をいう。すなわち「不耕穫 不菑畬」はどの爻も変爻せず、現状の形を維持すべきことを説く。それは裏卦に巽の形があり、九二と九三が巽の風に乗り、坤の天空を上昇しているからである。こうして耕さずして収穫を得、休耕して三年の地味を蓄え、三年間菑(わざは)い無く過ごす。三年間は成果を期待せず無心となって師についていきなさい。そうすれば数年後には地味を蓄えた状態に戻るとの教えである。身も心も疲れ切った人が数年休んでエネルギーを取り戻す。何もしていないように見えるが、その時間によって地味を取り戻し人間としての成長を遂げる。
【六三】无妄之災 或繫之牛 行人之得 邑人之災
妄念の災いなきことを願う。一時的に牛を繫ぎ、行く人がこれを奪う。村人の災いである。
「災」は水が塞がれて横流れする形。水災。火災の義。水は坎の象意。火は離の象意。この卦においては坎の形も離の形もない。従って変爻による坎あるいは離の形が「災」となる。六三は初九と結びつきやすく、六三が変爻すると天火同人となり、その裏卦は地水師となる。地水師は師団の形であり、六三の国境において「師或輿尸 凶」とあり、六三に災いが生じる。天雷无妄の六二は裏卦地風升の形を維持すべきことを説く。従って六三の「災」は変爻することによる災いであり、表の六三変爻および裏の六五変爻を火災、水災と見ている。
「或繫之牛」は「牛」の解釈が鍵となる。「牛」がどこかの爻を指し示し、この爻が隣接する爻との関係で、あるいは繋がりあるいは奪われる状態となっているのだろう。まずは「牛」がどの爻を指し示しているか特定していく。これに先立ち、他卦で用いられる「牛」を以下に掲げ、「牛」が現れる時の形の特性を掴みたい。
山天大畜【六四】童牛之牿 元吉
「牿」は角木。牛馬の檻(おり)。「牛」は下卦三陽。檻は上九。
離爲火【彖辞】離 利貞 亨 畜牝牛吉
「牝牛」は六二及び六五。「牝」は雌を意味するから陰爻と見なす。
水火旣濟【九五】東鄰殺牛 不如西鄰之禴祭 實受其福
「牛」は九三。
天山遯【六二】執之用黄牛之革 莫之勝説
「牛」の檻は艮の九三。「黄牛」は裏卦地澤臨の九二。
火澤睽【六三】見輿曳 其牛掣 其人天且劓 无初有終
「牛」は裏卦水山蹇の九三。
澤火革【初九】鞏用黄牛之革
「牛」は裏卦山水蒙の九二。
火山旅【上九】鳥焚其巣 旅人先笑 後號咷 喪牛于易 凶
「牛」は九三。
「牛」は従う気質であり、また囲(檻)に入れられる性質のもの。さらに牛には角があり、角は頭に付くもの。それぞれの卦を見ると、必ずしも「牛」が現れる爻辞が「牛」の姿を示しているわけではない。囲に入る形の典型は水火旣濟。九三が初九と九五に繋がれ囲いの中に入る。檻の典型は山天大畜の六四。上九は檻でもあり角でもある。下卦の三陽が牛となり上九の檻の中に入る。天山遯及び澤火革の「黄牛」の「黄」は中央の色であるから六二あるいは裏卦の九二。九三が檻または角となる。火澤睽の「牛」は裏卦の九三。九三が角となり九五に従う。火山旅の「牛」は特定が困難であるが、九三を檻とし「牛」とすると、上位と離れやすく下に拘束するものがない。初六が変爻すると上下分裂の離爲火となり「畜牝牛吉」となる。
以上、他卦の「牛」を検証すると囲に入る爻あるいは艮の角、檻に閉じ込められる爻を「牛」と見なしているようにみえる。また離爲火の「牝牛」以外は陽爻を示していることも分かる。天雷无妄の賓卦は山天大畜であるから、山天大畜の見方に準ずる。従って「牛」は上卦の三陽。そして初九は三陽を囲む檻となる。あるいは裏卦の地風升においては九二と九三となる。「牛」を裏卦の九二と九三と捉えた場合は、巽の形から従うがままに昇っていき、囲いがないため逃げやすく奪われやすい。さらに「或繫之牛」の「或」は国境を現わし有事をもたらす文字である。六三が変爻した場合、裏卦において巽の形が崩れて地水師となり、軍隊を動かす形となる。これが「或」の国境の有事に繋がっていく。故に「邑人之災」、村民の災いとなる。従って「行人之得」の「行人」は初九が六三を得て、六三が変爻する形。また裏卦においては九三が六五を得て六五が変爻する形と見る。いずれも離、坎の形を生じ、火災、水災をもたらす。尚、ここでの「邑人」は上卦の三陽とみる。裏卦地風升の九三に「升虚邑」とあり、「虚邑」は上卦坤を表すから、天雷无妄では乾となる。
この卦の謎を解くもう一つの鍵は上九変爻によって生じる。つまり澤雷隨の形である。先に解説した通り澤雷隨の裏卦と賓卦は同形となる。この形は表と裏の状況が錯綜し、誤った人に繋がる可能性を示す。つまり誤った人につかまることを災いとし、これに警鐘を鳴らしている爻辞とも受け取れる。上九の「行」と六三の「行」が応じていることが、裏卦の上六変爻を示唆する。さらに澤雷隨六三の「得」が天雷无妄六三の「得」に応じ、澤雷隨九四の「獲」が天雷无妄六二の「穫」に応じていることも、この推察の裏付けとなる。
【九四】可貞 无咎
神の許可を求めて貞卜する。神罰なからん。
「可」は祝禱の器サイを木の枝に吊るした形。神が許可する義。地風升の初六「允」に貞卜の結果に対する追認の意味があり、これが許可の意味に繋がる。「可」は「何」とともに顧みて誰何する形がある。
賓卦山天大畜【上九】何天之衢 亨
山天大畜の上九は天雷无妄の初九にあたる。「何」は初九の動向に対して誰何している可能性がある。すなわち初九の勢いが上卦乾に迫り、初九が上位に許可を求める形であり、また初九の動きに対する九四からの勧告と見ることもできる。九四から見た初九は卦を逆転すると廟の位置となる。
裏卦地風升【六四】王用亨于岐山 吉无咎
岐山は宗周の聖地の山とされる。「王」は岐山に祀られる文王。地風升の上六が変爻すると山風蠱となり、その裏卦が澤雷隨となる。澤雷隨は裏卦の上九を「岐山」とし、この山を祀る。澤雷隨の九四に「何」が用いられることから、天雷无妄の六四は上六変爻を想定し、その上九の「岐山」に対する敬意を「可貞」で示した可能性もある。
【九五】无妄之疾 勿藥有喜
①妄念の祟りを消し去る。邪霊を祓えば喜びある。
②妄念の祟りを消し去る。鈴を鳴らし邪霊を祓い、鼓を打って虫害を祓え。
「疾」は矢傷。祟り。「藥」は薬草。左右の「幺」は鈴を鳴らすふり太鼓の形象。「白」の部分は鈴。呪医である巫女が鈴を鳴らして邪霊を祓い治療する形とされる。「喜」は神に祈るとき鼓を打って神を楽しませる形。秋に虫害を祓い豊作を祈る農耕儀礼に通じる。ここで初めて「不耕穫 不菑畬」の農耕に繋がる。九五は「疾」を祓うことであるが、その一つは虫害であり、もう一つは心の病である。その心の病を「妄」念と捉え、これを祓う。妄念はどこから来るのか。裏卦の地風升の上卦は坤。坤の形には邪霊が憑きやすい。この坤の邪霊を祓うことにより、表の乾(豊作)が得られる。これを九五の「喜」とする。裏卦の六五が変爻すると坎となり、これが「疾」となる。もう一つの「疾」の要因は裏卦九三である。九三は六五の地位を凌ぐ位置にあり、六五は常に九三を警戒する。鼓は震の象意であり、初九が上卦乾の豊作を促す。
【上九】无妄 行有眚 无攸利
妄念なし。異方に進めば災いあり。禊をして利権なし。
裏卦地風升【上六】冥升 利于不息之貞
「行」が六三の「行人」に応じる。上九が国境の干渉地である六三に関わることは「眚」となる。天雷无妄の各爻辞を見ると、総じて裏卦の状況を示していることが分かる。表を外見とすると裏は内面であり、隠れていて外からは見えない。地風升は下卦の巽が天の導きに従い昇っていく形である。ここに妄念のない姿を見ている。
(浅沼気学岡山鑑定所監修)