山水蒙

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【彖辞】蒙 亨 匪我求童 童蒙求我 初筮告 再三瀆 瀆則不告

          利貞

 

蒙昧。希望は通る。我より蒙昧な者を求めるのではない。蒙昧な者が我を求める。最初の卜筮には告げるが、再三問えば神意を穢す。神意を穢せばお告げは得られない。出入を厳密にして身を清めよ。

 

「我」は犠牲の羊に鋸を加える形。われの義として訳すが、「我」は王位継承の順位者としての義もある。「求」は金文ではつぐなう、贖う義。すなわち「瀆」に通じる文字となる。「童」は元来受刑者または農奴的身分の人を表す。神の徒隷に施される。「初」は「衣」+「刀」。祭衣を裁ち染める義。殷祀に「衣祀」という合祭があった。金文の「初見」「初見事」は君臣の礼を表す。「筮」は卜筮。「告」は外祭の際、枝に吹き流しを付けること。神に告げ祈る義。「亡尤」(咎なし)は告祭して祖霊の允諾を得ることをいう。「再」は布帛または組紐をそこから折り返すこと。「三」は易の爻辞でしばしば用いられる数である。正確な「三」の意味と度々の意味が並列していると思われる。「瀆」の「賣」は「眚」と「貝」。災いを救うために貝を提供すること。神意を汚す意味である。「瀆」は溝、水の流れ、大川の意もあるが、彖辞は穢す義、冒涜の義として用いられる。彖辞の中で「求」と「瀆」が通じることは、特定の形または形の特異性を指示している可能性がある。

 

「三」という数の根拠は後の卦でも検証するが、陽爻陰爻の何れかが三爻揃う時に用い、また坎の形をもって「三」を表す場合もある。山水蒙における「再三」はどの象意からもたらされたものだろうか。「再」は折り返す形であるから、仮に六四が変爻すると火水未濟となり、上下卦を折り返すと陰陽が一致する。この動きを「再」で表した可能性がある。この裏付けとして、火水未濟の裏卦水火旣濟九三の爻辞に「三」の文字が現れる。さらに「瀆」には水の流れ、大川の意味があり、火水未濟六三の爻辞に「大川」の文言が現れる。これらの文字の繋がりが六四爻変の可能性を裏付けする。もう一つは坎の象意である。坎は信号を連続的に発する性質があるため、この気質を「再三」の形と見なした可能性もある。再三瀆」という表現の背景にはこうした変爻の動きと坎の象意があると推察する。ではなぜ「再三」の形は冒涜「瀆」になるのか。山水蒙は火水未濟の九四が変爻した卦でもある。従って「再三」とは火水未濟の形、未完成の形に戻ることを意味する。この四爻の変爻によって形が堂々巡りとなることを「困蒙 吝」と表現したのではないか。火水未濟は裏卦と賓卦の同一形であるから、完成と未完成の形が表と裏になる。こうした経緯を易は捉え、山水蒙の彖辞に明記したと考えられる。

 

山水蒙は無知蒙昧な童が教師を求める卦。彖辞は師が児童を探すのではない。児童がふさわしい師を探し求めるのだと説く。これが本来の筋。卜筮は厳粛なものであり、最初に出た卦が不本意なものだからと言って再三行うものではない。あるいは最初に出た卦で判断できないからと言って何度も行うものではないという教え。この卦は師弟関係のあるべき姿及び卜筮の心得を説く。師弟関係は安易に結ぶものではない。また教える側が児童を探し求めることは筋違いであるという。現実はなかなかそうはいかないだろうが、この教えは的を射ている。教えるということは知識を教えるだけではない。その裏には学問に対する心得、心構えをしっかり理解させ、最終的には師匠の生き方そのものを教え引き継がせる意味がある。それ故に相当な縁がなければこの師弟関係は結べない。これほどに堅固な関係でなければ、生きた知識、技術は伝授できない。「再三瀆 瀆則不告」とは神意を何度も確かめるような行為は神意を冒涜することであり、こうなると神のお告げは得られないという。このことは何も卜筮に限ったことではない。自分が聞きたいことと異なる返答があれば話を半分しか聞かないという姿勢を正している。こういう姿勢を蒙というのであり、それ故に蒙昧な弟子を安易に取るものではないと教える。

 

 

 

 

【初九】發蒙 利用刑人 用説桎梏 以往吝

 

①蒙昧を啓発する。刑人を用いるによろしい。足かせ手かせをもって説得

   する。奮起して出向き、過ちを改めること憚る。

②蒙昧な人に布告する。その人を罰するによろしい。これにより足かせ手かせ

   から脱する。奮起して出向き、過ちを改めさせよ。

 

「發」は両足(癶)で立って開戦に先立ち弓を射ること。発動の義。「撥」を都邑の侵略破壊で使用した卜辞がある。礼記では「矇を發(ひら)く」の義で用いられる。「刑人」とは何を指すのか。刑は坎の象意であるから九二を指す。上卦の艮は手を意味し、九二の刑人を叩く手となる。初九は懲罰に至らず、厳重注意の段階と見る。「説」は神に告げ祈ること。「脱」に通じ、脱去の義がある。しがらみから脱するように説得する、あるいはしがらみから解放してあげる状況と解す。「桎」はあしかせ。「梏」は手かせ。「吝」は凶事の礼、通過儀礼が元来の意味。「過ちを改めて吝(をし)まず」(書経)から憚る、ものおしみする意味となる。九二から上九に山雷頤の一爻不足の形が生じる。その中心が六四であり、六四に「困」が用いられる。「困」には「木」があり、「桎」と「梏」にも「木」がある。「木」が初六と六四との繋がりを示す。「至」はその地に至り地を卜しそこに建物を作る義であり、「告」は告祭して祖霊の允諾を得ることを示す。従って六四の地を用いるには、告祭して祖霊の允諾を得る必要があることを二つの文字が示す。また初六は九二から上九の形を「困」の囲いと見ており、「桎梏」の状態と見ている。初六は唯一そこから離れた位置にあるから、「桎梏」を「説」かれた状態にある。従ってその中にある六四に応じて「往」くことは禍となる。

 

裏卦澤火革【初九】鞏用黄牛之革

 

裏卦の状況も黄牛の革でしっかり繋ぎとめる意味がある。「鞏」は恐慎の義。澤火革は命を改め心を改める卦である。

 

 

 

 

【九二】包蒙 吉 納婦 吉 子克家

 

①蒙昧な人を包容する。吉である。婦人を娶る。吉である。その子は家廟の

   任によく堪える。

②蒙昧を包む。契刻した誓約の実現を求める。布帛を納め、廟内を清め、

   玉ははきを行う。神意にかなう。公子は家廟の任によく堪える。

  

蒙の主体となる。この卦は上九が九二の蒙昧なものを厳しく教育する形を表すが、九二の爻辞はその卦象とは逆で、身の処し方が正しく「吉」と評される。九二は中庸の徳を持ち、上九に恭順の意を表し貢物を納める。「包」には刻辞に貢ぐ形があるが、ここでは包むと解する。九二と上九が三陰を包む形を表す。「納」は布帛をおさめる義。「包」の貢ぐ義と「納」のおさめる義が呼応する。「婦」は宗廟の内を清めるための玉ははき。殷代の「婦」は出自の氏族を代表する者として極めて重要な地位にあったと言われる。「婦好」の卜辞に外征を卜するものがある。「婦」は九二のことを示す。従って爻の位置により九二の見方は変わる。「子」は元来王族中の重要な構成員として用いられている。「子」は坎の象意であり九二を示す。「克」は木を彫る刻鑿の形。克己すること。「克」は坎の象意。すなわち九二を示す。「家」は元来犠牲を埋めて地鎮を行う廟所である。上九を廟所と見なす。「婦」の宗廟の清めと「家」の地鎮の意味が呼応する。この卦では六四の位置を清めるべき場所とする。九二は下卦坎の中軸に当たり、任によく耐える。「婦」「子」「克」はすべて坎の象意であり、同時に九二の素性と気性を表す。

 

 

 

 

【六三】勿用取女 見金夫 不有躬 无攸利

 

女を娶るに用いるなかれ。金夫に見ゆる。身を保たず。利するところなし。  

 

「取」は人を徴収する義で用いた卜辞がある。授受の意を持つ。「女」は六三を示す。「勿用取女」は天風姤の彖辞でも用いられる。この卦は九二から上九が山雷頤と同形になる。山雷頤の六三に「拂頤 貞凶 十年勿用 无攸利」とあり、養いに悖ることを説く。「勿用取女」はこの形に準ずる。「勿」は弓体に呪飾を付けた形で弾弦の象。邪悪を祓う義がある。易では三陰の坤を十年とし、あるいは邪霊の憑く場所と見る。特に第三爻は異族との国境に接する場所であり災いを招きやすい。「金夫」は何を指すのだろうか。「夫」は山雷頤の裏卦澤風大過で用いられる。「夫」を陽爻と見ると九二又は上九となるが、ここでは見上げる象意が強いから上九と考える。六三が応の上九に養いを求めて見上げるが、養いに悖る形であるから六三を「勿用」となる。

 

 

 

 

【六四】困蒙 吝

 

蒙昧にして、困惑する。過ちを改めることを憚る。

 

「困」は枠に木をはめて出入を止める門限の形。型枠とは九二から上九の形。その中央が六四の位置となる。九二と上九の双方になびくことで信頼を失う。彖辞において既に述べた通り、六四の変爻は再三瀆」の形となる。「再三」を火水未濟の形と見なすと、未完成の形に戻ることを意味する。六四の変爻は形の堂々巡りとなる。「吝」は六四が置かれた立場を表すものでもあり、また六四の変爻に対する過ちを説くものでもある。

 

 

 

 

【六五】童蒙 吉

 

①幼くして蒙昧である。吉である。

②蒙昧な者を動かす。契刻した誓約の実現を求める。

 

「童」は目の上に入墨した受刑者の形。神の徒隷の義。金文に「死(おさ)めて童せしむること毋れ」とあり、動の義として用いられる。「童蒙」は六五から見た九二の評価と見る。九二は六五に「童蒙」として応じ、六五は九二の蒙昧を啓発して吉となる。

 

 

 

 

【上九】撃蒙 不利爲寇 利禦寇

 

蒙昧なものを撃つ。仇打ちするのでなく、仇打ちされることを防げ。

 

「撃」は穀物などを袋に入れて打ち脱穀すること。「禦」の「卸」は「午」と「卩」より構成される。「御」は「禦」の初形で祟りを防ぐ意味の文字。「午」は杵形の呪器。「卩」は拝して神を降ろし祖霊の祟りを防ぐ儀式。修祓の儀礼としては御が最も多く行われ、非常に重要な修祓であった。特に王室に嫁してきた婦については先王の妣が祟りをなすことを記した卜辞の事例が多いという。「禦」は九二の「婦」を受け入れる事に対する祟り封じの儀式と考えられる。山水蒙は九二の蒙昧なものを受け入れることによる災いを上九が封じることを説く。「寇」は廟中で虜囚を撃ち呪飾を加えること。廟中の虜囚は九二。上九は賓卦の初九となり、九二は賓卦の九五となる。爻辞は双方の立場の逆転を警戒している。

 

 

 

(浅沼気学岡山鑑定所監修)