水地比
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【彖辞】比 吉 原筮 元永貞 无咎 不寧方來 後夫凶
①比助あり。吉。慎んで卜筮に尋ねる。末永く身を慎むのがよい。神罰なし。
心中安らかならざる人が異方よりやってくる。遅れる夫は災いある。
②比助あり。吉。慎んで卜筮に尋ねる。末永く身を慎むのがよい。神罰なし。
大いに安寧を求め異方より貢獻する。進退迷う夫は災厄を祓え。
「比」は二人相親しむ義。「比」の親しむ対象は九五。九五が坎の象意をもたらす。坎の象意に悩み、不安、心配がある。故に「不寧方來」という。この卦は九五の大人に親しむ卦であり、各爻の位置はその親しみ方、距離感を表す。六三の「比之匪人」は位置が不安定であり、九五を脅かすもの、あるいは九五から誤解されるものとなる。「後夫」とは六二の状況と推察する。九五を先んずる「王」とすると、六二は後方の「夫」となる。この六二の「夫」が変爻すると坎爲水となるから、この形を「凶」と警告する。
【初六】有孚比之 无咎 有孚盈缶 終來有他吉
①真心があって比助あり。咎めはない。真心が溢れるほどに満ちる。
終に(その人)来りて予想外の吉がある。
②真心があってこれに比しむ。神罰なからん。真心があって缶に満ちる。
終には(その人に)貢献し、予想外の吉がある。
「孚」は卵がかえることの他、魂振りを意味する。「盈」は器に満ちる形と人の膝が屈曲する形。盈満の義。金文に継承の義で用いられた例がある。「缶」は土器のほとぎ。釣瓶。この卦は六二が変爻すると坎爲水となる。
坎爲水【六四】樽酒簋貳 用缶 納約自牖 終无咎
【九五】坎不盈 祗旣平 无咎
離爲火【九三】日昃之離 不鼓缶而歌 則大耋之嗟 凶
「缶」「盈」の文字が応じる。二つの文字は六二変爻の可能性を示し、彖辞はこの動きを「後夫 凶」と表現する。一方、各爻辞は九五との「比」(した)しみを強くして変爻の動きを示さない。初六は上位に陽爻の妨げなく、坎の恩沢が下まで降りてくるから吉。
【六二】比之自内 貞吉
内よりこれを比助する。出入を厳密にし、貞卜によって修祓せよ。契刻した誓約の実現を求める。
「内」とは六二の位置。六二のみが正式に九五と応じることのできる地位である。
【六三】比之匪人
これを比助すること、人にあらず。
第三爻は不安定な位置であり、辺境の異族と見なし、これを警戒する。比しみ方に問題がある。
【六四】外比之 貞吉
外からこれを比助する。出入を厳密にし、貞卜によって修祓せよ。契刻した誓約を実現せよ。
「外」は「夕」+「卜」。「夕」は肉を削り取る義。卜は朝明けに行うのが通例であり、夕方に卜することは法外であった。「夕」は夕暮れを表し、古は重要な儀礼を暮れより行った。外(そと)の意味がいつから加わったのかは不明。ここでは内と外の意味と解釈するが、通常とは異なる位置で比しむ。上卦を外の位置と見る。
【九五】顯比 王用三驅失前禽 邑人不誡 吉
①比助をあきらかにする。王は車馬に乗って三面から包囲して狩猟し前方の
獲物を逃す。村人は(この王の徳行を見て)警戒しない。神意に適う。
②自ら顯(かえりみ)て親しむ。王は三頭の馬を鞭打ち走らせ前方の獣を
見失う。異方は(この王の徳行を見て)警戒しない。契刻した誓約の実現を
求める。
「顯」は玉の形に呪飾を加えた形。神霊を呼ぶ時の神降ろし。神霊が現れる義。「丕(おお)いに顯(あき)らかなる文王」のように神明の徳をたたえる語として用いられた。書経に「罔顯于民祗」(民の祗(なやみ)を顯(かえりみる)罔(な)く)とある。水地比の六二が変爻すると坎爲水となる。九五に「坎不盈 祗旣平 无咎」とある。ここでも「祗」(なやみ)の文字が用いられる。坎爲水の九五は悩みが平らかになる、すなわち概ね難を乗り越える状況とみる。また礼記に「人臣たるの禮、顯(あら)はには諌めず」とある。「顯」には物事を明らかにする、露わにする意味がある。また「顯」には主君自らが謙る義があるようである。「驅」は車馬。「失」は手を上げて舞う恍惚とした状態を表す。「逸」と声義が近く、のがれる義。「前」は旅立ちの前や帰還時に前足の爪を切り揃える形。前進する義。「禽」は有害な獣。ここでは坎の九五を示す。「邑」の口は都邑の外郭。「誡」は両手で戈を奉じ警戒する形。いましめる。いいつける義。ここでは警戒の義として解釈する。 「三驅」の「三」は三方面、あるいは三頭の車馬と見る。
「王用三驅失前禽」は王が一番容易く捕獲できる獣を敢えて見逃すと読むことができるが、この文言は状況によって様々な解釈ができる。「邑人不誡」は「誡」の義の捉え方によって解釈が逆転する。「誡」を戒める義で捉えると「邑人」(村人)が王を戒めない、すなわち下位の者が上位の「王」を戒めないとなる。一方「誡」を警戒する義で捉えると、「邑人」(村人)は「王」の動きを警戒しないとなる。九五の「王」は「前禽」を「失」うのであるから、この意味を捕らえるべきものを見逃す行為とすると、「王」の徳行として解釈することができる。ここでは徳行の義として解する。
「顯」(かえりみる)から得られる解釈は他にもある。「顯」の明らかにする意味は裏卦離の象意である。従って「顯」は裏卦の象意を表しているとも考えられる。この場合下卦に三陽の乾が現れる。この三陽を「三驅」と見ている可能性もある。また「失前禽」の「禽」を坎の象意と捉えると、裏卦では「禽」が消え失せる。裏卦の三陽が現れると九五の坎「禽」が失せる。三陽は六五の中庸の徳に対し警戒心を解く。これらの経緯をもって「邑人不誡」と表現したと推察する。また「顯」(かえりみる)を賓卦の象意と見ることもできる。九五は賓卦地水師の九二に当たる。この形は九二の軍師が上卦の坤と対峙することになるから、ここに坎の「前禽」はいない。これを「失前禽」と見た可能性もある。水地比の裏卦は火天大有である。その九二および六五の爻辞を見ると、「顯」(かえりみる)に関するこれらの推論を裏付けする状況が現れる。
火天大有【九二】大車以載 有攸往无咎
【六五】厥孚 交如 威如 吉
「大車」が九二で用いられることから、下卦の乾を車馬と見ているか、あるいは水地比の九五を「大車」と見ている。金文「厥君厥長」は異族諸邦の君長の意味で用いられる。ここでは「王」を意味する。さらに金文「厥非正命」では逆らう義として用いられる。「厥」の文字は六五の孚に逆らうものがあることを示す。「交如 威如 吉」はこれに対する六五の君主の応じ方である。交わり、威光を示すことが吉となる。この君主の孚心に対し「邑人」は「不誡」(警戒せず)となる。
この爻辞は易の見方を知るうえで非常に参考になる。九五という存在を他の爻がどのように見ているか、各々の爻辞に現れる。下位の爻辞は九三を除いて九五を親しむべき大人とみる。一方、九五の坎は「王」であり「前禽」でもある。また悩む人であり、親しむべき対象でもあり、助けるべき対象でもある。それが九五に至り自分自身の位置となると、顯(かえりみて)比する自分が現れる。
【上六】比之无首 凶
①これを比助するに頭なし。汝の迷える霊を鎮め、災厄を祓え。
②これに比しむに頭なし。汝の迷える霊を鎮め、災厄を祓え。
上六を首の位置とする。比しむべき相手は九五であるが、上六は九五の上にあるから比しむ相手を見失う。
裏卦火天大有【上九】自天祐之 吉无不利
天よりこれを佑く。契刻した誓約を実現せよ。差しさわりはない。
表では凶となるが、裏では吉である。易はこのような場面がしばしば出てくる。易は裏を見よと教える。従うべき頭を失った上六ではあるが、裏では天の佑助を得る。表だけの現象を見ている時はその真意を掴むことが出来ない。
(浅沼気学岡山鑑定所監修)