雷水解

                           

  

 

【彖辞】解 利西南 无所往 其來復吉 有攸往 夙吉

 

①解放される。西南に往くのがよい。往くところなければ、元のところに

 戻って吉である。行き先があれば、早く動いて吉である。

②解放する。西南に向かうによろし。往く所なければ、それ貢物を献じて

 復れ。神意に適う。禊ぎを勧められ、奮起して出発する。早朝の残月を

 拝し、つとめて早く契刻した誓約の実現を求める。

 

雷水解はしがらみ、拘束、蹇難から解放される卦、解決の卦である。西南によろしという文言は西南が苦痛から解放される方位だからである。気学的な解説をすると、西南が吉方位のタイミングであれば西南は庇護者を得られ、拘束された環境や肉体的労苦から解放される。西南は母親の方位でもあるから、その庇護者は大方母親となる。同時に西南は養育を表す方位であるから、親子関係が緊密となり、子が親を扶養し面倒を見るようにもなる。すなわち家族関係がより緊密になる。また坤の象意である土は忍耐努力の象意でもあるから、誰かに付き従い修行に入る人も出てくる。坤には十年の意味がありその修業は十年間続く。彖辞にある「復」は故郷に戻る意味と元の元気な自分に「復」活する意味もある。卦の形を見れば下卦の悩みを意味する坎の上に、支障なく一気に突き進む上卦の震がある。

 

この卦は水山蹇の賓卦である。水山蹇は九五が坎の悩みを抱え、九三が九五の主君に反する卦であった。その形を逆転させると、上卦の震が九二の坎のしがらみを解いて上昇する形となる。「利西南」は水山蹇では九三変爻による水地比の形を表すと解釈したが、雷水解はどの爻変により坤(西南)の形を作るのだろうか。「无所往 其來復吉」は水山蹇の九三のことを示しているのではないだろうか。九三が九五に受け入れられない形を「无所往」とし、この形を逆転させた雷水解の形を得ることを「其來復吉」で表したのではないだろうか。または九四が変爻すると西南を意味する坤の形が生まれ、進む廟「所」をなくし、翻って九二(賓卦の九五)の廟「所」へ戻ることを「復」で表した可能性もある。「復」には反復の義があるから、逆方向へ進む形も考えられる。但し水山蹇の形に戻ることは解放の義に反するから、九四(賓卦の九三)が九二(賓卦の九五)から離れて進む形を「來復」の形と捉えたい。「夙」は「夕」+「丮」(ケキ)。「丮」は両手にものを持ち神意を拝する形。早朝の残月を拝する儀式を表し、早朝の義となる。下卦の坎を深夜とし、上卦の震を明け方とすると、早朝の義が生まれる。震には早朝の義と勢いよく進む義があるから、これを「夙吉」と表したのであろう。

 

 

 

 

【初六】无咎

 

咎めなし。

 

この卦は悩み、束縛からの解放を表す。そうであれば何からの解放なのか。束縛しているものは何かを特定する必要がある。悩みは坎の象意であるから、悩みの元は九二である。さらに悩みから解放されるのは上卦震であり九四である。このように見ていくと、九四と応の関係となる初六は九二の下におり、九四を留める力もないから九四の進行を咎めることもなく、また上位から咎められることもない。

 

 

 

 

【九二】田獲三狐 得黄矢 貞吉

 

①狩をして三匹の狐を捕える。黄矢を取得する。身を慎めば吉である。

②田狩して三匹の狐を捕獲する。黄矢を取得する。出入を厳密にして

 貞卜により修祓せよ。契刻した誓約を実現せよ。

 

「田」は区画の形。田猟の義がある。巽爲風の六四「悔亡 田獲三品」でも田猟の義で用いられる。「黄」は火矢の形。佩玉(はいぎょく)の形。「黄」を中央の色とし、易では第二爻、第五爻の義で用いる。「三狐」の狐は坎の象意。「三」は三つの爻の象意と考えられるから、坎の三爻あるいは乾の三陽、坤の三陰となる。九二が変爻すると坤が生じるが、この卦では「狐」が坎の象意であることから坎の形に「三」の要素があると考える。坎は中核の陽爻が上下の陰爻を引き寄せ「三」つの結束を作る形となる。「黄矢」の黄は九二の位置を表す。「矢」は震の象意であるから「黄矢」は九二と九四の繋がりを示す。坎は糸の象意も含むことから、九四の矢を九二が放つ形と見ることもできよう。「矢」は誓約の証として用いたものであるから、「黄矢」は誓約が確定したことを示すものだろう。九二は狐の本体であるが、三狐を捕獲する身となる。但しこの狐は自らにも禍をもたらすものとして見る。

 

 

 

 

【六三】負且乘 致寇至 貞吝

 

①重荷を背負いながら、勢いをかりて進む。寇の至るを致す。

 出入を厳密にして貞卜する。凶事である。

②負担を背負い且つ勢いを得て進む。外敵に放つ矢が(自らに)至る。

 凶事に際し、出入を厳密にして貞卜し、修祓せよ。

 

「負」は人が貝を背負う形。金文では貝を綴って一朋とし、これを荷う形。背に背負う義。「且」は机の上に物を載せて薦めて祈る。卜文では祖(先)の意に用いる。「乘」は一人が木に登って遠くを望むこと。他の勢いをかりて行動すること。「致」は戦地に矢を放ってその到達点に赴き、そこでことを始めること。占領したところに赴く。金文で送る意味に用いられている。「寇」は廟中で虜囚を打ち敵に呪祝を加える形。金文に寇(と)る義として用いられている。外寇。「至」は矢の到達点。

 

「負且乘」は卦の形を表したものであろう。上に九四の剛がおり、下に九二の剛がある。六三はその間に挟まれるから、九四を背負い、九二に乗る形となる。同時に裏卦では九三が九五と初九の間に挟まれ、九三という境界に不安定化した形で入る。これが負担となり且つ勢いに乗じて自分の領分を超えてしまう。

 

「致寇至」は水天需の九三でも用いられる表現であるが、気学的に解釈しやすいのは雷水解の方である。雷水は三碧と一白に当たる。一白が中宮となると三碧は兌宮に入る。この関係を「致寇至」関係と私は捉えている。三碧と一白は特別親しい関係になりやすく、そのことが逆に一白への「寇」となり、同時にその「寇」が自分に戻ってきやすい関係となる。この関係性が雷水の境界に位置する六三に顕著に現れる。では水天需九三の「致寇至」関係はどのような構造から出てくるのだろうか。 

 

水天は坎と乾であり、一白と六白の関係となる。一白が中宮すると六白は一白の定位である坎宮に不安定化した形で入ることになる。この位置の六白は一白と一心同体の状態で、六白が成すことはそのまま一白の負担となり、一白が成すことはそのまま六白の負担となる。これが気学的な「致寇至」状態とみる。さらに九三は乾の一番上の爻となり、上卦と下卦の境界に位置するから気の状態が不安定化する。これを国境とすると、国境は常に異族や他国と接するところであるから有事が起きやすい。つまり九三は九五の地位を脅かす存在で、場合によっては謀反を起こす位置となる。これが水天需九三が「致寇至」となる理由と考える。 

 

 

 

 

【九四】解而拇 朋至斯孚

 

汝の親指を解く。朋はこの孚に至る。

 

「解」は刀で牛を切りとる形。解脱。弛緩の義。「解」が九四で用いられることは九四が卦の主爻であることを物語る。「拇」はおやゆび。澤山咸初六でも用いられる。「拇」は母を含む文字であることも留意したい。「拇」は澤山咸において初六の位置を示す文字として用いられるが、この卦ではどの爻を示すのであろうか。九四は束縛から離れて進む形であり、これを糸で曳き留めているのは九二である。足は震の象意であるから、その足元は九四になる。従って九四を「拇」とすると、「解而拇」は九二に引き留められた九四の「拇」を解放せよとの意味になる。九四は下卦の束縛をもたらす坎の形から抜け出しており、また初六は九四を繋ぎとめる力が弱いから「拇」を解くことができる。

 

次に「而」の義から「拇」を捉えてみたい。「而」は雨乞いする巫女の姿である。「需」は雨乞いすることを表し、ここから需(ま)つ意味が生じる。この「而」の雨乞いの形は賓卦水山蹇に現れる。坎の九五の水を九三が追い求める形である。この形を逆転させると雷水解の九四が九二を追い求めている形となる。この一連の動きを「而」はよく捉えている。この経緯からも九四の進行を留めているのは九二の坎であり、その九二の坎を求め追い求めているのは実は九四自身でもあることが分かる。「拇」は親指であるから賓卦の形から見ると、艮(手)の親指(九三)が九五を曳いている形となる。従って「拇」は艮(手)の九三、逆転すると震(足)の九四となる。「解而拇」は「而」(なんじ)自身が繋ぎとめている「拇」を解けと言っている。

 

この爻辞の意味を説くもう一つの鍵は「朋」である。雷水解の賓卦である水山蹇九五に「大蹇 來」とあり「朋」が共通して用いられる。すなわち「朋」という文字は易の特定の形を表す文字であることが分かる。その形とは何か。以下「朋」が用いられる卦を掲げる。

 

雷地豫【九四】由豫 大有得 勿疑 盍簪

澤山咸【九四】貞吉悔亡 憧憧往來 從爾思

 

「朋」は貝を綴った形である。金文では賜与や通貨として用いられたという。字形は左右に貝を吊り下げた形となる。雷地豫は六二が変爻すると雷水解となる。澤山咸は九四が変爻すると水山蹇となる。水山蹇は雷水解の賓卦となる。水山蹇は九三が変爻すると水地比となり、一連二系の綴りの形が出てくる。また雷地豫は六三変爻により雷山小過の形となり、これを「朋」「盍」「簪」の形と見ることもできる。これら四つの卦は九四及び九三の動きをもって「朋」(貝貨)の形を作る。「朋」の形は繋がっていても束縛にはならない。雷地豫九四にあるように「由」らしむことで繋がりを持つ。

 

 

 

 

【六五】君子維有解 吉 有孚于小人

 

君子はこれを解放する。吉である。小人に孚ある。

 

この卦は卦名が九四で用いられるから九四が主爻であると既に述べた。では六五の「解」は主爻を意味しないのだろうか。易が用いる文字には必ずその爻で用いる理由がある。従って六五も副次的な主爻の意味を持つことが分かる。それは裏卦風火家人にける九三と九五との繋がりからもたらされる。六五の爻辞は裏卦の形における「解」を示す。裏卦では九三が初九と九五の間に挟まり往「復」する形となる。「君子」はこの九三との繋がりを解放する。九三と九四の「解」は解放される対象の違いを示す。六五の「解」は九三との結びつきの解であり、九四の「解」は九二からの解放である。「小人」は裏卦の九三を示すものと考えられる。

 

九三変爻による風雷益【九五】有孚惠心 勿問元吉 有孚惠我德

 

「有孚」の文言の一致から、九三が束縛の元になっていることが分かる。従って六五の「解」は裏卦九三の変爻による束縛からの解放と考えられる。

 

 

 

 

【上六】公用射隼于高墉之上 獲之无不利

 

①公侯はもって高い城壁の上から隼を射る。これを捕獲することに

 差しさわりはない。

②公侯はもって凱旋門の壁の上にて隼を射る儀式を行う。

 これを捕獲して宜しからざるなし。

 

「公」は儀礼の行われる宮廟の延前。廟に祀る人。公侯。「公用」は公侯の重要な用件または公共の事由と解する。「射」は会射の儀。重要な儀礼で行う修祓の祝儀となる。祭祀の前の射や漁は厄払いの儀礼として行われたという。呪霊や疫病を祓うなどの目的が考えられる。「高」は「京」にまつわる文字。神明。高貴の義。「京」は元来戦場の凱旋門とそこで行われる呪祝を表す。さらに「京」は周の首都である「鎬京」も想定できる。「墉」は城壁。「獲」は鳥を手に執る形。捕獲の義。「射」の形は九四の矢を九二の弦が曳き放つ形であろう。「高墉」は裏卦の九三と推察する。「高」が凱旋門を意味するから、異国との国境にある九三を「高」の位置とする。このことを示唆するのが水火旣濟の九三に現れる「高」である。「獲」は九二の「獲」と繋がり、坎の「三狐」を獲る九四の動きに準ずる。

 

易の爻辞は文字の原義に忠実に訳しながらも、常に全体の形が何を表すかを想定しなければならない。上卦が震。下卦が坎。気学でいう三碧と一白の関係である。三碧が中宮する時一白は暗剣殺という不安定化した形を伴うが、暦に示している通り、一白には天道という吉神が付く場合がある。この意味は条件次第で大きな成果を得るということである。震は射る形。坎は水、病を表す。この爻辞を読み解く一つのポイントは「射」の解釈にある。「射」の儀礼は元来祓禳(ふつじょう)、厄払いの儀礼であったことから、この爻辞は疫病に対する修祓とその成果を示したものと捉えることもできる。そしてもう一つのポイントとなる文字は「高」である。「高」は風火家人、水火旣濟でも用いられる。易は爻変による形の変化推移を見抜いたうえで、同じ文字を用いることがある。

 

風火家人【九三】家人嗃嗃 悔厲吉 婦子嘻嘻 終吝

 

家廟を守る人(主人)は繰り返し豪語する。危うきことがあり後悔することあるが最後は神意に適う。婦人と子供はこぞって喜ぶ。終には恥をかく。

 

風火家人は雷水解の裏卦となり、同じ「高」の文字を用いる必然性がある。「吝」は死者について祈る凶事の礼であることから、雷水解が凶事を解決し、凶事から解放する卦であることが分かる。

 

水火旣濟【九三】宗伐鬼方 三年克之 小人勿用

 

殷の帝王高宗が鬼方を討伐した。三年を経てこれを克服した。小人を用いてはならない。

 

水火旣濟は雷水解の上六変爻によって生じる火水未濟の裏卦となる。ここで注目すべき点は「三年克之」。「鬼方」の克服に三年かかったという。「高」と「三年」の結びつきに留意したい。

 

 

 

(浅沼気学岡山鑑定所監修)