2026年1月
〔1月の運気〕
11月から始まった九紫火星による世直しは3か月続き、1月に九紫火星が中宮に入ることにより一段落つきます。11月の世直しは不特定多数の人に何をやっているのかを知らしめ、12月の世直しは具体的に組織に入っていき、公益に反する組織や企業の営みを糺し、1月は規律を歪めた者の倫理が問われます。その中で世直しに寄与した人物、組織、企業を国民は圧倒的な支持をもって称えます。公益に寄与するものは称えられ、公益を損ねるものは地位と肩書と名誉を失う流れにあります。
11月から1月までに起きたことは、実質的に2026年全体を通して起きることの縮図となります。2026年のテーマは真正の六白金星と俗世の六白金星の振り分けです。真正の六白金星は公益を志向し自己の利益を考えません。一方、俗世の六白金星は我が身の利益と組織の利益を優先し、公益を犠牲にします。1月は正義を探究し不正を見逃さない天道の九紫火星が妥協を許さず、国民の支持のもとに決断し決裁します。丑の月は旧来の体制の継続が不可能となり、重要ポストの罷免等が起きます。
〔今後の学問のあり方〕
改めて学問とは何かを問うてみます。例えば学校で学ぶ自然科学、社会科学、人文科学は当然学問であるとほとんどの人が疑わないでしょう。けれどもこれらの学問がいかに時代を経て定説を覆されてきたかを知れば、今私たちが学校で学んでいる知識や定理が今後数十年数百年後に通用するかどうかは全く不明です。むしろ通用しないことのほうが多いのではないかと私は予測します。
ほとんどの国は学校で学ぶ学問を最先端のものとして受け入れています。この常識は気学から見てここ数年で覆される可能性があります。例えば歴史がそうです。我々が教科書で学んできた歴史は恣意的な視点で出来事を集積し、ある一つのストーリーにまとめたものと言えます。歴史は出来事として知られていない大半の部分に真実と真相と本質があります。その真相が明らかになった時、今までの常識はたちどころに覆されることになるのです。
今地球レベルで起きている大きな流れは分離ではなく統合です。分離とは例えば医学でいえば症状ごとに専門科を作り、より精度の高い処置ができるようにすることです。ところが分離すれば分離するほど、全体の包括性は失われていき、人体を部位の集まりとしてとらえ全体の関連性を見失ってしまいます。
一方東洋医学は西洋医学とは逆で、統合の視点で人体を見ようとします。東洋医学は対処よりもエネルギーの調整と予防に重きを置きます。従って外科的な手術や疫学的な処方は不得意になりますが、人体を包括的に捉え、強くしていくことにおいては東洋的医療のほうに優位性があると言えます。つまり西洋医学も東洋医学もそれぞれの良さと弱点があるため、これを統合していくことが今求められているのです。
学問の体系はこれで確立したという形はありません。気学においてもその体系は年月を経るなかで原理原則を修正していかなければならないことも出てきます。学問の定義とは何でしょうか。私は学問とは今はこうであるが日々その定理に誤りがあれば随時修正していくもの。これが学問の定義だろうと考えています。
権威ある人から伝授したものが完成ではありません。いかなる分野でも学問は日々その誤りを訂正していく必要があります。但しその中で何千年、何万年経っても変わらない法則というものもあります。そういう法則を持った学問は必ず時代を超えて受け継がれています。そして幾重の時代を経ても何一つ根幹の思想は変わらないという学問もあります。
その代表的なものとして易が掲げられます。その易の物理的側面をより実学に沿った形で発展させたものが気学です。ですがその気学でも他の学問を集積しながら、その弱点を補い、虚心坦懐に誤りや定理を修正していく必要があります。そうであってこそ本当の学問になっていくのです。気学はなぜ「学」とつけているのでしょうか。それは学問として位置づけしているからです。ならば学問として誤りや不足を日々訂正し補っていく必要があります。
学問のよきアプローチは統合的手法です。他の学問と比較し、他の学問の定理を取り入れながら自らの誤りを正し、これと同時に自らの学問を通して他の学問の誤りを正しながら統合していくのです。
気学が学問として今後進展していくには地球物理学、物理学、化学、生物学、農学、そして何よりも親近性の高い医学を取り入れなければなりません。そして互いの視点から誤りを正し、不足を補っていく必要があります。これが学問の統合です。学問は個別に分離するのではなく、専門性を持てば持つほど、統合的手法が求められます。
これを継続していく目はどこにあるのでしょうか。それは真理を探究する志です。気学では天道です。天の筋道はどこにあるのか。地球の運気を見る時、世の中の運気を見る時、人の運気を見る時、常に宇宙の法則性を念頭に入れておくのです。
学問は真理の探究です。真理だけを見ようとするとき、誤った見方はたちどころに違和感をもってそのものに告げてきます。真理だけを見ようとするとき、言葉で表現できなくとも、定理として証明できなくとも、それが真理と同調している時、その感覚は間違いないと確信することができます。それはおそらく謙虚さからもたらされます。
自分の考えは本当に正しいのか。どこかに誤りはないか。どこかに不備はないか。これを繰り返し繰り返し唱えることのできる人は、いずれ遠からず必ず真理に至るものと私は考えています。
浅沼気学岡山鑑定所監修